2012年3月27日火曜日

刑事弁護人としては、このような「市民感覚」が存在することを忘れてはいけないと思います。(モトケンブログより)

裁判員の感想 - モトケンブログ
裁判員の感想

裁判員第1号の男性、改めて会見 「刑に現実味感じた」(asahi.com 2009年8月9日3時9分)

 裁判員経験者の感想が述べられています。

 評議の末に決まった懲役15年の判決を裁判長が言い渡す瞬間、法壇から被告をじっと見たという。「青ざめた印象の被告を目の当たりにして、15年間の自由のない生活に入ると考えたとき、刑に対するリアリティーを感じた」

 被告人自身が感じたリアリティーよりは薄いとしても、言い渡しを受ける被告人を目の前にした裁判員としては、たしかに刑の重みを感じたのだろうと思います。
 このあたりは、日常的に刑を言い渡し、またそれを聞いている裁判官や検察官が、自らが関与している判決の重みに鈍感になっていないか、反省すべきだろうと思います。

 この裁判員は、懲役15年という判決の重みをずしりと感じたことと思います。
 この事実は、今まで私だけでなく多くの人が述べてきた裁判員制度に対する危惧の一つが深刻な現実的問題になることが杞憂でないことを証明していると言えます。
 それは死刑判決についてです。
 裁判員たちは、自らが決定した(評議で死刑に反対した人を含めて)死刑という刑の重みを、自らが列席する法廷において被告人に直接対峙しながら、裁判長の言い渡しを聞くとき、裁判当事者の一人としてその重みを受け止めなければいけなくなります。
 果たして、裁判員の皆さんはそれに耐えられるでしょうか?
 

 審理を通じて、刑事裁判に対する見方が変わったという。「今までは犯人が憎い、厳罰も、と考えたが、必死に生きている中での不幸な結果が事件になることもある」。裁判員を経験したことで「罪を憎んで人を憎まず、という部分が自分の気持ちの中にあった」と気づいたという。

 犯罪についてのネットの意見として、いままでさんざん「犯罪者 → 極悪人 → 同情の余地ない」という論調を見聞きしてきた私としては、裁判員が「必死に生きている中での不幸な結果が事件になることもある」というごく当たり前の認識を持ってくれたことについて嬉しく思います。
 証拠の全体をきちんと読み、そしてきちんと評価されているのだろうと推察します。

 男性は、被害者にも落ち度があるかのように繰り返し訴える被告側の主張に「反省しているのか」と感じた。

 刑事弁護人としては、このような「市民感覚」が存在することを忘れてはいけないと思います。

 自らが刑を考えるうえでは、裁判所が示した過去の類似事件での判決の一覧よりも、検察側の求刑と被害者遺族の意見を参考にしたという。

 つまり、弁護人の意見は参考にならなかったということなのでしょうか?
 そうだとすると、その原因を検討する必要がありそうです。

 議論をする上での基準は「今でも分かりません。弁護側が何年で妥当と思うかも、参考として知りたかった」と述べた。

 これも弁護人に投げられたボールの一つですね。
モトケン (2009年8月 9日 08:44) | コメント(1563) | トラックバック(0) このエントリーを含むはてなブックマーク  (Top)

 裁判員制度開始直後の投稿みたいです。リンクのニュース記事が削除されリンク切れになっているのではっきりしたことはわかりませんが、たぶんあの当時注目を集めたあの事件だろうと思いました。近隣トラブルの殺人事件で、殺人行為の直後に競輪場か競馬場に行っていたという事件だったと思います。

 この元検弁護士の新しいブログは開始まもなく停止状態になったことは記憶していましたが、このエントリも一度は目を通していたのか記憶は曖昧です。あれほど活況を呈した常連さんのコメント投稿も見当たらず、コメント欄を埋め尽くしているのはすべて英文の意味不明のコメントになっています。なぜ、コメントが減ったのか、そして停止に至ったのか、削除されずに放置されているのかわからないことばかりです。


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